DIY動画ハマりました

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ひょんなことからDIY欲がむくむくと膨れ上がってきた。ドイツに住んでいるくせに、日本にあるものばかりねだっているせいか。もしくはググる力がないか、どちらか。独語不得手が一番、大きいか。IKEYAに足を運んでも、丁度、良い棚やデスクがみつからない。暇つぶしにYoutubeで動画を漁っていると、昔はスルーしていたようなDIYにまつわる動画に強く感情が反応するようになっている。

例えば海外のDIY動画が鑑賞できる。Marie Kondoのリアリティーショーが鑑賞できる。「鑑賞できる」というのは自分にとって少し特殊な用語で、“爆笑動画”や“放送事故”などと過去も検索したであろう動画を眺めることとは意が異なる。要するにその映像や物語に感化されるし、さらに踏み込んでいけばその考えや行動を自身に移し込むことができる、ということと相違ない。元来、貧乏性由来の天然性ミニマリストであった私にとって、これは特筆すべき事態だ。

この意味で、例えば、スラムダンクなどを鑑賞することは私にとってスラムダンクの動画を眺めるとイコールではなく、スラムダンクを通して自分の中にしまいこまれていたであろう感情の引き出しをあけることだった。もう今では遠い昔のことのように感じてしまうが、始めてスラムダンクに触れたのは高校生の時だった。中学時代、陸上部で苦い思い出をしていた私は、別の時分を求めてバスケットボールの世界に入り込んだ。リアルの世界で背番号14を預かっていた私は、非リアルな世界ではみっちゃんだった。マッチ相手は長谷川。ディフェンスはいつも左手を地面にあて、鬼気迫るオーラを醸し出していた。出しているはずだった。本当は13人いた3年生のなかでドべだった私は1ケタのゼッケンを預かることなく、残り物の14番をもらった。小暮君はおろか、安田君さえ、遠い存在だった。目覚ましい上達も、今が全盛期といえるような全盛期もないままに、引退を迎えた。

しばらくしてから、スラムダンクを「鑑賞」できるようになった時の、わりと動揺した記憶は、今でも鮮明に蘇る。自分の変化が確かにそこにあった。時間をわけて2度読みすることの効用だろう。数コマに挟み込まれた山王戦の角田君の悔しさを自分のことのように感じたり、白メガネで描かれる小暮君の一挙一動に心の琴線が触れていた。似たようなことが、スラムダンク以外の範囲にも及んだということか。

現在、写真やデザインを生業とする人たちのDIY系の動画をバチクソに再生しているんだが、背後にある心のうごめきを感じる。クリエイターという言葉に鼓動が高鳴る。コンテンツクリエイターという言葉に嫉妬する。自分もこうでありたいと感じる。時に自分にもこういうところがあると信じている。「俺はクリエイター」という強烈な幻想でなく、「俺はたまにクリエイター」という程度ではある。まだ回復の余地のあるの弱い幻想なんだろう。もっとも、自分にとっては大きな変化には違いない。

去年の今頃、ラーメン作りに没頭していた。論文や就活という現実から逃げるためだったのだろう。出汁やかえしを狂ったように調べていた。骨という骨を集めて、冷凍庫にしまいこんだ。冷凍庫に鶏や豚の足が広がる様は、魑魅魍魎が集まる巣窟だった。良い出汁を作るには、長い時間と適度な温度設定が肝要だった。それなりの時間をかけて、順序を守って温度を変えれば、予定したスープが出来上がる。短い時間で、ぐつぐつと強火で煮込むと、非常にくせがつよく、臭みの交じったスープになる。ヒトの感情をラーメンの出汁とするならば、DIYの動画を鑑賞することは、感情という旨味を抽出するための長い料理であり、私は彼らの動画を通して、良質な出汁を創り出している最中なんだろう。

スラムダンクを通して抽出した出汁はわりかしよくできていた。そのスープは口当たりがよく、はじめは魚介系豚骨スープだと分からなかったほどで、口内にのこる最初のスープの残り汁をきれいに洗い直した後、改めて2口目を口にすると、カツオや煮干しの香りが重なって、スープの旨味に深みが加わっていることに気が付く。濃厚なくせして、スープを飲み干した後には清涼水を飲みきったような、さわやかな飲料感が襲い、これはもやはスープではなく、清涼飲料水だと感じたほどだ。

今、Marie Kondoの動画を鑑賞すると、鼻息が荒くなる。カメレオンのような、両目をぐるぐると回して部屋のあらをさがしている。穴の開いた靴下を見つけると、心の中の嬉々としたMarie Kondoが、これはスパークしなーい、なんていっているイメージ。

Tying Upという番組をえんえん観ている。過渡期なんだろう。陰部がむきだしになる穴のあいた下着、色物と洗いピンク色になったTシャツ、バッキバキに硬くなったバスタオル。みんなみんなスパークしない。断捨離、資本主義からの脱却、その先にあるのはMarie Kondoか、はたまたチェ・ゲバラか。

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