料理と私
寮に住んだ時、2Fには共同キッチンがあった。
毎年、地元の夏祭りには韓国人とチヂミの材料を仕込んだ。
大量に買い込んだキャベツ、ニンジン、豚バラ肉、油、油、油、小麦粉、キムチ…..
薄暗がりの蛍光灯の下で、寸胴鍋に刻んだ野菜と大量の水を入れて、素手でかき混ぜる。
くたびれると隣の座敷に座布団を敷きつめて、長テーブルにおいたビールを流し込んだ。
ケニアに来た時、家には召使がいた。
彼がつくる野菜炒めは甘く、砂糖と塩、コショウで炒めたソースがたっぷり。プラスチックのように固いお米に、ソースが良く染み込んで美味しかった。
ミルクコーヒーは熱々の砂糖水みたいで、トウモロコシを蒸して、ふかしたウガリは消しゴムのような味がした。スーツケースに入れた帽子は彼に盗まれていた。
アメリカに来た時、冷蔵庫には8枚入りの胸肉があった。
巨大なフライパンの上に敷きつめて、たっぷりの塩と胡椒で味をつける。
すっかり酸化した日本から持ち寄った醤油をかけると、皮目においしそうな焼き目に焦げた醤油の懐かしい香りと煙が立ち上る。やせ細った白いタイ米とピンク色の胸肉、色味はないけど十分だった。片面によく火が通った胸肉の中はいつも生焼けだった。
ドイツにいた時、坂の上にはトルコスーパーがあった。
牛骨、鳥の脚、豚の皮、もも肉の残飯から集めた骨を買い占める。
パスタ用の寸胴に骨を敷きつめる。玉ねぎ、ネギの葉、スルメイカ、リンゴ、煮干し、鰹節、サバ節、マグロ節を入れる。ラーメンは温度管理がすべてだ。一晩寝かせた麺をパスタ機で製麺する。かえしにスープを注ぎ、スープと煮込んだチャーシュー、煮卵、海苔とメンマを乗せる。そこら辺の日本食レストランなんて目じゃなかった。
キッチンの配水管が油まみれになって、業者を呼んで、バキューム代を払い、ハウスメイトから冷たい目で見られてもかまわなかった。
私は今、アルアのダブルルームの片隅でクッカーの電源を入れている。
シングルルームは、スーツケース2つを広げるとベットに突っかかり、半開きになるくらいの広さしかなかった。備え付けのテーブルは、パソコンの重さで崩れそうなくらいにガタついていた。
あのベットに置かれていたペットボトルとナプキンセットを思い出す。
部屋の薄暗い明りをみるとあのキッチンを思い出す。
薄汚れたコップに注いだミルクコーヒーを飲むとあのチャイを思い出す。
クッカーから噴き出る湯気を見ると、あの胸肉を思い出す。
ここにはない、ありあわせの何かで日本食を作るとき、あのラーメンを思い出す。
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